引越し

引越しすることになり、たくさんの持ち物を減らそうということなった。僕が持っている物で特に多いのは、Tシャツをはじめとする衣類、靴、そして本。本は時間がかかりそうなので、とりあえずはTシャツ&衣類から取りかかった。

40年以上も着ているTシャツがあったりする。当然ボロボロだけれど捨てがたい。どうしようかと考えて思いついたのが「写真に撮る」こと、そしてその写真を「フェイスブックに載せる」こと。試しにTシャツを数枚引っ張り出して、写真撮影して、加工して背景をカットして、新しいフェイスブックページを作って、そこに載せてみた。

いける。自分としてはかなりいける。捨てなければならないTシャツを、どんどん写真に撮って加工して載せていったら、何だか気持ち良くなって、あまり捨てなくてもいいものも、撮影・加工・掲載の工程を経て捨てられるようになった。

記録に残せれば持っていなくてもいい。何だぁ、そうだったんだ。自分の気持ちなのに今まで知らなかった。人にはあまり見せられないけれど、現物がなくてもこれらの写真があれば、そのTシャツにまつわる思い出や思い入れはすぐに蘇る。

これは靴でもいけると思う。ただ、本には通用するだろうか?たぶん、通用しない。たぶん、本の表紙の写真を眺めていても、それでは満足できないと思う。それは何故か?

衣類や靴など身につけるものは、身につけていた時の思い出が詰まっている。時代と共に、流行りが移り変わるので、身につけていた当時の時代とリンクしやすいこともある。それと比べて、本はずっと昔に書かれた本もあるし、新しい時代の本でも何度でも読み返すことが出来て、当時 というものがあまり無い。そして見た目よりも中身であり、表紙を見ただけで本に書かれている文章をちゃんと思い出すことが難しい。表紙を見ながら本を読み続ける訳ではないので、表紙を見てもその時の感情が蘇ることもほとんどない。本にも匂いがあるが、読む度に嗅いでいる訳では無いので、匂いで記憶が戻ってくることもあまりない。

そう考えると、本って具体的な物だけれども、とても抽象的なものでもある。見た目ではないし、その物の中身は自分次第。1冊の本を100人が読んだら、100冊の本があるのと同じだし、同じ本を同じ人が読んでも、読んだ時によって決して同じ本にはならない。本は他に類を見ない不思議なものである。

(針谷和昌)

hariya  2024年3月13日|ブログ