例えばテニスをしていて、お互いがネット際に詰めていく状況になる。その時、幸運にもゾーンに入っていると、自分が次に何をするかは考えない。考えなくていいし、実際考えられない。こうやろうという意識はなく、ただ身体のおもむくままに動く。そうやって動くことが流れるように感じるので、ゾーンのことを心理学用語ではフローと呼ぶ。
ゾーンに入ると自分のことは考えないが、相手が次に何をしてくるかは良く見える。そして見えていても、それに対してどうしようかとは考えない。身体が勝手に反応する。相手のバックボレーをそのまま映し鏡のように自分の身体が勝手になぞったり、それまで出来なかった思いっきり腕も足も外側に伸ばして伸び切った姿勢でフォアボレーを試みると、ボールに届いてしかもコントロールもついて、上手く打てたりする。
アメリカの生理学者ベンジャミン・リベットの実験で、人が「指を曲げよう」とすると、その0.35秒前に指を動かす電気信号が出ているということが発見された。人間が意図するよりも前に、無意識が既に動き出していたということである。1983年に発表されたこの実験の話は、私が長らく教わっている前野隆司教授(*)の本で知った。
ゾーンに入った時、相手が何をしてくるかがわかる気がするのは、まさか相手の電気信号を自分も受信しているからではないだろうが、指を曲げようという意識が、動きの信号より後付けで立ち上がるという状態は、ゾーンで言えば、ボールを打とう、返そうと意識せずに、身体が勝手に動いた後に、相手との動きが予測出来たと感じるのと同じなのかもしれない。
こうやって動いたのも、来たボールを打ったのも、勝手に身体が動いて無意識にやったこと。つまり、自分の意志、そして自分の考えというものが、全くない状態にある動き。その動きをしている間が、ゾーンに入っている、フローに入っている状況なのであるなら、意識しない、考えないことを、大いなる矛盾だが意識的に出来れば、あるいは意識的にその状態に自分を誘導出来れば、ゾーンに入ることが出来るのだと思う。
『インナーゲーム』というコーチングのバイブルと言われている本がある。著者はティモシー・ガルウェイというアメリカのテニスコーチ。1974年に出版され、程なく出た日本語版を僕は当時からくり返し読み続けているのだけれど、この本には自分が自分自身をコーチする声に耳を傾けることなく、ボールのバウンドと打つタイミングにのみ集中することで、結果を意識しないという状態をつくり出し、その結果、実は良い球が打てるという事例を紹介している。
考えない状態、あるいは考えたと思う状態をなくすことが、ゾーンへの近道。夢中になる環境と状態をつくり出すこと。そうなれる状態は、いつ、どこで、何をやるかが、人によって違う。それを見つけるのがなかなか簡単にはいかず、また同じ人でもその時々によって状態が違うので、検証するのも実験するのも、なかなか難しいのである。
*:慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授、慶應義塾大学ウェルビーイングリサーチセンター長、武蔵野大学ウェルビーイング学部長兼任予定(2024年4月~)
著書=『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』(ちくま文庫)、『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』(講談社)、『幸せのメカニズムー実践・幸福学入門』(講談社現代新書) ほか
(針谷和昌)
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