日々本 其の二百六十「中国武術韓氏意拳」

『荒天の武学』(内田樹 光岡英稔/集英社新書)


「荒天」という言葉はあまり使わない。「雨天決行、荒天中止」などとイベントで告知するときぐらいだろうか。まして「武学」は漢字変換できないくらい、珍しい言葉。本を買ったときも読んでいるときも気にならなかったけれど、珍しい言葉を2つ繋げたタイトルは、無意識に向けて結構インパクトを持つのかもしれない。

著者の1人の光岡英稔もさらにインパクトがある。武道家としてのレベルが高過ぎて理解できる時限を超えているが、きっとこのインパクトは潜在意識に入り込んでいて、いつかハッと思い出す時が来るような気がする。「…中国武術韓氏意拳の光岡英稔。光岡は十一年にわたるハワイでの武術指導歴を持ち、きれい事ではない争闘の世界を歩いてきた…」そうである。話は武道にとどまらず、社会全般に及ぶ。その中から幾つか印象に残る部分を書いておきたいと思う。

戦場に出ても抜群だし、陣の裏側での指揮も大丈夫。そういう人でないと国を治めることができなかったでしょう。

その人が何に適しているかというのを、いち早く見抜く能力が将には必要なわけです。

この人がいるおかげで自分の心身の能力が高まる。この人がいて、自分に向かって斬り込んできたり、つかんできたりするおかげで、運動の精度が高まり、運動が速く、鋭く、強くなる。そういうふうに考える。自分と自分の環境の関係を対立的にではなく、同化的にとらえる。敵を無化するというおより積極的に資源として取り込んで、自分を豊かにしてゆく。合気道にはそういう考えがあると思います。

不思議なもので、言葉ひとつで変化するんですけれど、言葉の影響力は時間が経つと消えてしまう。言語的な入力は身体に残らないんです。逆に、身体を通じて出力したことは蓄積してゆく。

「国民の健康より金が大事」

能を武家が独占したので、庶民のために歌舞伎ができた。

私たちが見ている対象が現象ではなく、私たち自身が現象です。

言語は私たちを忙しくさせてくれるし、寂しさなども紛らわせてくれる。

ほかの条件を全部同じにしないと変化は検出できない。

怒りや憎しみや悲しみや虚無感に襲われたときに、そういうものに決して取り込まれないことが、ぼくは武道家の必須条件だと思います。

:内田樹:光岡英稔

対談形式だけれど、ちょっと“異種格闘技戦”の趣がある。似たもの同士でないトークバトル。それが成立しているギリギリのラインにあるのが、この対談なのではないだろうか。

日々本 第260回 針谷和昌)


hariya  2013年6月30日|ブログ