『脳はなぜ「心」を作ったのか』(前野隆司/ちくま文庫)
読みました。僕が勝手に“前野隆司3部作”と考えている3冊目。最近の著書から前へ前へと逆流して読みました(『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』→『錯覚する脳』→『脳はなぜ「心」を作ったのか』)。タイトルから思うのですが、この初期の本はきっと単行本でも以前読んだことがあって、家や会社の本棚を探したけれども見つからず、きっとこの前被災地に送る本の中に入れたんだと思います。この本は著者の原点に近いので、よりストレートにいろいろと書かれていると思いますが、印象的な部分を幾つか。
無意識の方が意識が意図する時刻より 0.35秒 速い
実際に動くのは意図した時刻より 0.2秒 あと
心が動かそうと意図するのが始まりではなく、その前に無意識下の脳でそれが準備されているということです。実際に動くのよりも0.55秒速く無意識では動かそうと決めている訳です。これはもちろん驚きなのですが、3冊読んだ後では、そういうものなんだ、と納得している自分がいます。
それよりも、この「0.55秒」を0.1秒でも速くすることができれば、例えばスポーツにおいて圧倒的に優位に立てるのではないでしょうか。それをどうしたらできるのか、そもそも何かやればどうにかできることなのかということ自体も、僕にはわかってませんが、どこかにそれを追求しているアスリートがいたとしても、おかしくありません。
心のメカニズムが物理法則のように美しいものになるかというと、そうはならないそうです。物理世界はそうならざるをえない結果としてそうなったのですが、生命情報はそうであれば都合が良いようにデザインされてきた結果だからだそうです。鳥の前足が羽になったのも、人の形がこうなったのも、都合が良いように後づけで改良されてきたからということ。物理と生命の違いが少しわかった気になります。
謎と言われるクオリアに関しても明快な答えを出していて、エピソード記憶のどこを強調するかを決めて、索引をつけるためのもの、感情・情動はそのクオリアを強調するためにある、そうやって得た豊かな経験は、未来に反映されるという意味がある、ということです。
将来、心を持つロボットができる、ロボットや動物にも“人権”が生まれるのではないか、という話、個人の記憶はささやかながら文化として受け継がれて行くという話が出てきます。前者は未来の世界の形、後者は個人の存在意義として、ともに魅力的な話です。次、また次と結局3冊読み終えて、やっぱり一度、著者とお話しできたらいいなという思いを強くしました。
(日々本 第238回 針谷和昌)
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