『新潮45』(2013 3/新潮社)
特集「プロの消えた国」、特集「二年後の被災地にて」、さらには2つのスポーツ界の暴力に関する記事を読みたくて、珍しくこういう月刊誌を買った。2つのスポーツ記事は、「スポーツは本来「暴力」とは対極にある」(玉木正之)、「体罰はわれわれの中にある」(小田嶋隆)である。
前者は「スポーツとは、闘い争う「暴力行為」を、ルールにより非暴力化しゲーム化して生まれた身体文化である」ということを真っ向から語り、加えてメディアの情けない状況も指摘している。後者は「日本人に抜きがたくある「パワハラ体質」を直視しない限り、決して問題は解決しない」と言い切っている。
小田嶋隆の「…江戸の町火消しは、破壊消防によって、江戸名物の火災に対処していた…」という比喩が面白い。それが全柔連はできていないと指摘する。そして、全員トカゲの尻尾的な体質は日本人全体が持っているもので、それを自覚してパワハラ体質を変えていかない限り、問題は本質的に解決しないと指摘している。
スポーツが上達するには、繰り返し同じことをやって身体に覚えさせる、という部分がある。この「身体に覚えさせる」が間違って変形したのが、「体罰」なんだと思う。たまたま通りかかった少年野球の現場のほとんどが、「褒めて」教えるのではなく「叱って」教えるという状況からも明らかなように、出来ないことを叱るという方法で、これまでのスポーツ指導が行われてきたように思う。もちろん例外もたくさんあるが、それが日本流の主流だったのではないか。冷静に見つめてみれば、明らかに「パワハラ」と紙一重である。今回の騒動は、そういう“混同”を整理して改める良いチャンスである。
昔、何かの本で読んだことを思い出した。厳しく調教されて芸ができるようになった象が、そんなことを忘れてしまうぐらいしばらく経ってから、その調教師を踏み殺すことがあるという(ライアル・ワトソンの本だったかなぁ)。身体で習得した芸とともに、心はパワハラを覚えている。それは象も人間も変わらないだろう。その不幸の連鎖を止めることができたなら、選手たちは能力をいま以上に発揮して、日本のスポーツはもっと発展していくのではないだろうか。
(日々本 第218回 針谷和昌)
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