『夢を与える』(綿矢りさ/河出文庫)
やはり小説はこたえる。この小説をハラハラしながら読み、そのハラハラが実現(フィクションなのでこの言葉が適切かはわからないが、お話の上で実現)してしまったりすると、ダメージが大きい。綿矢りさの小説を読んだのは2回目だけれど、ダメージがあったということは、つまり、この作者には力があるということでもある。
話の大筋とは関係ないが、珍しく小説の本に鉛筆で線を引いた。「与える」という言葉の使い方に関して、主人公と仕事の知人が語り合うシーンだ。
主人公は「夢を与える」という言葉が汚らしくないか、と言う。農業をするつもりの人が、私は人に米を与える仕事がしたいですとは言わない。「与える」という言葉が決定的におかしい。夢だけが堂々と「与える」なんて高びしゃな言い方が許されるなんてどこかおかしい、と言う。
それに対して知人は、そんなに深く考えなくていいんじゃない、みんなよくわからないままに使っている言葉よ、と話をそらすように言う。僕は読みながら、そう かわしちゃダメだよ、と心の中でつぶやく。
この言葉はスポーツ選手もインタビューで言ったりする。夢を与えることができたらいいです…その度に違和感を覚える。もっと酷いのは、感動を与えたい。そう言う選手もいるし、ファンの方は、感動をありがとう。感動は与えられるものではなく、自分が勝手にするもの。感動をありがとうと言う人は、お礼を自分に言っているのだろうか。
もし僕の横に、この小説に出てくる主人公の知人がいたら、それは「疲労回復」という言葉と同じ、と言うかもしれない。本来は「健康回復」であり、「疲労から元気や健康を回復する」を略したのが「疲労回復」だから、それと同じで「感動をするほどのパフォーマンスを見せてくれてありがとう」ということだと。端折り過ぎでしょう。
話はだいぶ横道にそれたけれど、主人公が汚らしくないかと語る言葉を、著者はタイトルにした。読み終えてみれば、このタイトル以外に最適なものはないのかもしれない、と思えてくる。次は『インストール』を読んでみたい。
(日々本 第157回 針谷和昌)
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