日々本 其の百四十五「最後の授業」

『街場の文体論』(内田樹/ミシマ社)

毎朝、個室で少しずつ読み続け、ようやく読了しました。神戸女学院大学文学部総合文化学科・内田樹教授の最後の授業「クリエイティブ・ライティング」の1年間の講義をまとめたものです。中身が濃いのでじっくり読んだし、この文章を書くのにも珍しく1週間以上かかっています。

以前にもこの本を取り上げて、その時に表紙の写真は使っているので、今回は帯の写真を載せてみました。読み終わってから改めて「言語にとって愛とは何か?」という問いか掛けを読んでみて、果たしてそれに答えられるだろうかと、いささか自分の読書力に自信がなくなってきています。取りあえず鉛筆で何かしら書き込んだところを、ピックアップしてみましょう。

作家の仕事が「地面に穴を掘る」というタイプの肉体労働に近いものだと村上春樹が書いている、という下りがあります。地面に穴を掘る→深い穴を掘る。深い穴を掘るというのは、ビーチバレーの第一人者・白鳥勝浩選手が言う上達の秘訣で、ビーチバレーをやっているといろんなプレーを練習したくなるけれど、シンプルな基本プレーを繰り返し繰り返し練習することが、実際の実力アップに繋がる、という考え方であり、やり方です。作家とアスリートも深いところで共通しているんだなぁと、嬉しくなった部分です。

ものを書くときには、「何かが来るのを待つ」ということ。そして、「つかまえるのには技術が要る」ということ。とりあえず、このことを皆さんは覚えておいてください

「待つ」ということは実感としてわかります。でも「つかまえる技術」を僕は意識していません。これはなかなか(当分)わからないことではないだろうか、と直感的に思います。

「愛の連鎖」と書き込んだところがあります。「本と目が合う」ということを説明している部分です。

い本にはよい本にしかない力がある。作家が気合いを入れて書いて、編集者が気合いを入れて編集して、装丁家が気合いを入れて装丁をして、営業マンが気合いを入れて営業して、書店員が気合いを入れて配架した本は、その本が書棚に並ぶまで経由してきたすべての人たちの「思い」がこもっている。そういう「愛されている本」というか、人びとの輿望を担って、満を持して書店に並んでいる本には、何かにじみ出るような力がある。オーラが出ているんです。…

そしてこの後に、「僕らはみんな、書物との宿命的な出会いを求めている…」という話が続きます。そしてこれは「偶然じゃないと、宿命にならない」のだそうです。…ここの部分、書いておくと P64-66 あたりなんですが、とても参考になります。本を売る、本を見せる、という時にいちばん肝心なところだと思います。また「読者はいわゆる消費者ではありません」という言葉も印象的です。

「ゾーン」も出てきます。武道では「安定打座(あんじょうだざ)に入る」「瞬間的な瞑想状態に入る」と言うそうです。自分の身体が「そんなことができるとは自分でも知らなかった複雑精妙な動作」をすることで、ある程度集中的に身体技法を訓練したことのある人なら、誰でも経験のあることだそうです。…ということは、武道家にはゾーン経験者が多数いるということで、そういうことを気にしながら、引き続き「ゾーン」を追ってみることにしようと思いました。

いつも思うのですが、内田樹の本は読んでいてわくわくします。何度も「なるほど」「へぇー、そうなんだ」と思います。ところが読み終えると、なぜか内容をスッと忘れてしまっています。著者の説明があまりにも自然に頭と体に入ってくるので、違和感がゼロで、スッキリする代わりに何か引っかかって違和感が残る感じがありません。著者の「条理を尽くして語る」愛に包まれ過ぎて、自分で考える余地がないからなのかもしれません。これは本当に不思議なところで、これまでだいぶ著者の本を読んできましたが、もう少し読み続けてその謎を解いてみたいと思います。

日々本 第145回 針谷和昌)

hariya  2012年11月02日|ブログ