いま『街場の文体論』(内田樹/ミシマ社)をゆっくり読んでいる最中なのだけれど、比較的最初の部分に、授業の履修希望者が多すぎて教室に収容出来ないので「私がこれまで会ったなかでいちばん粗忽な人」というタイトルのレポートを書かせて、その出来で授業の履修者を選ぶという話が出てくる。よし、僕もトライしてみようと、書いてみた。合格するかな?
粗忽な人、男でも女でもあまり思い浮かばないのだが、無理矢理何人かの顔をその口調や行動と同時に思い出すと、なぜだか腹が立つ。それは粗忽な人が軽はずみでそそっかしくて軽卒だからで、それを自分に対してされると自分が大切にされていないようで心中穏やかでなくなるからだろうか。でもそれが映画の中でなら笑い話になるんだと、あるキャラを思い出したら気がついた。
フーテンの寅さん。ある日突然、映画の寅さんシリーズを見出した。TVに見るべき番組が殆どなく、DVDもなかなか見たいものがないという時に、森繁の社長シリーズの後に、続けて何作か借り続けた。余談だがその流れで健さんシリーズも幾つか見た。
僕は寅さんのカルチャーには縁遠く、寅さんのスタイルは僕が感じる格好良さの対極にあるので、これまでまったく興味を持たなかったのだけれど、見始めると面白い。まさに寅さんの粗忽さが、人を笑わせそしてハラハラさせる。でも結構理不尽なことを言ったりやったりする場面も多くて、こんな人が本当に知り合いにいたら、果たしてその粗忽さを楽しめるだろうかと思えてくる。おいちゃんのように「バカだねぇあいつは」と半分以上本気で、少しだけ愛情を込めて、何度も言わされるような気がする。
もうひとり思いついた。実在の人物。長嶋茂雄。小さい頃の一茂を球場へ連れて行って、試合が終わって忘れてひとりで帰ってきてしまったという逸話がある。ストッキングの片方がなくて皆で探していると同じ足に両方履いていたという話もある。こちらは底抜けに明るい粗忽さ。息子の一茂以外は笑えると思う。ご本人とは仕事を何回かしたことがあるが、仕事で粗忽を感じたことはない。
それよりも一度、休みの日に多摩川沿いを走っていくと、何だか遠くの方が華やいでいる。だんだん近づいてくると、何と向こうから長嶋さんが走って来た。千載一遇。「ジョギングかぁ」と声を掛けてくれたが、川縁を走っているのだからジョギング以外はない訳で、長嶋さんらしいと言えば長嶋さんらしかった。
そんな訳であまり思い浮かばない粗忽な人。そういう人がなかなか出て来ない世の中、そういう人を受け入れない世の中になっているような気もする。余裕と希望が少しでも増えていく世の中になってほしいが、そうすると粗忽な人もぐっと増えてしまうのだろうか。
(日々本 第125回 針谷和昌)
追記)
友人が送ってくれた本がある。『仏果を得ず』(三浦しをん/双葉文庫)。もうずっと積ん読になっていて、送ってもらって以来、ずっと読まなければと義務感が先走っていてその割には本を開けなかったのだけれど、今日は純粋に読んでみようという気になった。読み進むうちに出て来たんです。主人公が突然大声を出した場面。「急に大声出すなや、粗忽者が」(P53)…こういう偶然って、結構あって、とっても不思議。
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