日々本 其の八十「主権者」

新聞広告を切り取って、持って歩いて探した『司法は原発とどう向きあうべきか ―原発訴訟の最前線』(現代人文社編集部/現代人文社)が見つからない。時間も充分にあったので、本屋内検索システムで探すと「在庫あり」、「詳細」を見ると大きな本屋なので2ヶ所の棚に置いてある筈なのだが、どちらにもない。似た様な本があって、それをパラパラ見てみると、ちょっと難しそう。目当ての本を見つけてもたぶんあまり変わりないだろうと、その時点で諦めた。

その代わり、別の場所の別の本屋に、殆ど時間がないので3分だけ立ち寄ろうと決めて早足で店内を歩いていたら、この本がパッと目に入り、サッと買って、 その日のうちに読み終えて (全体で54ページなので)しまった。本との出会いにも、“縁”があるということである。

『「主権者」は誰か 原発事故から考える』(日隅一雄/岩波ブックレット 830)

憲法前文には「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とあって、国民が国を治めていくことが定められているにもかかわらず、東日本大震災では政府や東電が多くの情報を独占し、隠し、様々な基準を多くの国民の同意を得ないままに決めていった。国民が主権者として振る舞うことができなかったのは何故か。戦後に築かれてきた様々な制度、システムに問題があったのではないか。「はじめに」で、その様な問題提起があって、今回の原発事故をもとにして様々な問題、課題と解決策が述べられていく。

企業が私企業であっても、やるべきことをやっていない時には、社会的責任からその姿勢を許すかどうかは市民の側が判断するべき。公益性の高い内部告発は社会にとって善だという風潮を培っていく。裁判官が法務省に出向する「判検交流」という人事交流システムは疑問(やめるべき)。原発訴訟で裁判官が原告勝訴判決を抵抗なく書ける環境づくりが必要。主権者の権利制限は法律だけでなく小例や通知によるものが実質上多いが、法律によって明確に定められるようにしないと主権在民が形骸化する。国民投票とデモという手段を進める。メディアリテラシー教育が必要。

読みながらラインを引っ張ったところをピックアップして要約すると、こんな感じになるが、書き方に激しさはない。ふつう政治への参加にはある種の熱や情のようなものが必要なのではないかと直感的に考えてしまうが、そうではなく先ず知があり、それをもとにした参加が大切なのであると語っているように思う。それが最後の2行に集約されている。

私たちが主権者として振る舞うために、「思慮深さ」を身につけたうえ、積極的に政治に参加していかなければ、この国は変わらず、また取り返しのつかない「何か」が必ず起こるだろう。(p54)

日々本 第80回 針谷和昌)

hariya  2012年6月08日|ブログ