日々本 其の七十「街場の読書論」

『街場の読書論』(内田樹/太田出版)

本が次々に紹介される。どれもこれも面白い。本のことを書いているが、話は縦横無尽に広がる。プロが書く本の話はこうも違うのかと、「日々本」を書いている僕は思う。「これまでこのブログに何度か書いたけれど…」とあって、内田樹はブログを書いていることに気づく。僕のこの文章は、“ブログ”ではなく“読書日記”か“備忘録”だなということを、改めて認識する。今後“ブログ”として書く勇気が僕にあるか?何事もチャレンジであるが、あえて無知をさらけ出す勇気が出てくるか、いささか自信がないなぁなんて考えながら、読み進める。

知らない言葉がところどころに出てくる。内田樹の文章が知的に感じるひとつのポイントである。例えば「パセティック」、あるいは「囲繞」。調べてみると、パセティックは「哀れを誘うさま、感動的なさま」とあり、「囲繞」(いにょう)は「周りを取り囲むこと」である。学んだ気になる。

知らない言葉だけではなく、知っている言葉でも何故か印象に残る。たとえば「ひしめいていた」という言葉。「この人たちがほんとうに狭い知的サークルにひしめいていたのである」という文章。ここから突然、うちの会社は「才能がひしめく」「熱い気持ちがひしめく」「勇気を持ったメンバーがひしめく」会社にしたいなんて、イメージが広がっていく。

さらに読んでいるうちに、この本もその本も、すぐに読みたい、という気持ちになってくる。

『ラカンはこう読め!』
(スラヴォイ・ジジェク/紀伊國屋書店)

『天使と宇宙船』
(フレドリック・ブラウン/創元SF文庫)「ウァヴェリ地球を征服す」

『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』
(福澤諭吉/講談社学術文庫)

『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』
(内田樹/海鳥社)



中盤までにこれだけある。『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』のブログでは、「瘠我慢の説」のことを書いているので、これはついこのあいだ読んだ『福澤諭吉 幕末・維新論集』(山本博文 訳・解説/ちくま新書)の中にあった。その時の僕の捉え方がいかに浅いかと思い知らされる。『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』は内田樹の本なので買って持っているけれど、ちゃんと読んでいなくて、本棚からさっき引っ張り出してきた。さて理解できるだろうか。

……読んだあとに、「腹が減ってパスタが茹でたくなった」とか「ビールが飲みたくなった」とか「便通がよくなった」とか「長いことあっていない友だちに手紙が書きたくなった」というのは、出力性の高い書物である。……(「池谷さんの講演を聴く」p80より)

と内田樹は書いているが、まさにこの本は僕にとってまんま“出力性の高い書物”に他ならない。プロのなせる技に脱帽、という感じである。

日々本 第70回 針谷和昌)

hariya  2012年5月17日|ブログ