日々本 其の六十六「忘れる」

ちょっと時間があったのでこの「日々本」の最近のものを読み直してみた。自分でも驚くほど書いたことを忘れている。「書く」という作業には読んだ本の印象的な部分を忘れずに書いておこうという意図があるのだけれど、忘れているとなると備忘録として書いていることになる。

読んで、印象的なところに印をつけ、ぜんぶ読み終えたところでもう一度 印の部分を読み返し、書く。書く時も入れると、印象的な部分を3回読んでいることになる。それでも忘れている。これ書かないとどうなるんだろう?書かない方が覚えているだろうか?そんなことはないと思う。

体の新しい使い方を本で読み、それを毎日実践しているのに、部分部分忘れていく。あ、肩甲骨を大きく使ってないぞ最近、なんて気がついたりする。これなんか図解の部分をコピーして手帖に挿んであるのに、内容を忘れている。コピーしてあるから安心して忘れてしまうのだろうか?そんなこともないと思う。

忘れられなければ頭がいっぱいになってしまう。日々新たな気持ちで臨むために無になるとすれば、たくさん忘れるに限る。それでも残っているものが、自分の身になっていくのか。それでいいのかなぁ。

日々本 第66回 針谷和昌)

hariya  2012年5月09日|ブログ