『暇と退屈の倫理学 人間らしい生活とは何か?』(國分功一郎/朝日出版社)
この本で個人的に最も印象的なのは「考える」ことについての考え方。
「新しい環境は人に考えることを強いる。そうやって考えるなかで、人は習慣を創造していく。習慣が獲得されれば、考えて対応するという複雑な過程から解放される」
「しばしば世間では、考えることの重要性が強調される。教育界では子どもに考える力を身につけさせることが一つの目標として掲げられている。 だが、単に「考えることが重要だ」という人たちは、重大な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ」(太字部分は原文では「、」がふってある)
「人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日、教室で会う先生の人柄が予想できないものであったら、子どもはひどく疲労する。毎日買物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲労する。だから人間は、考えないですむような習慣を創造し、環世界を獲得する。人間が生きていくなかでものを考えなくなっていくのは必然である」
われわれ(社)本の宇宙は、「考えない楽から考える楽しさへ」を活動のキャッチフレーズにしている。著者は続けて「人がものを考えざるを得ないのは」「環世界に何か新しい要素が「不法侵入」してきて、多かれ少なかれ習慣の変更を迫られる、そうしたときであろう」と言う。ならばわれわれは、不法侵入する新しい要素が楽しさを予感させるようにすること、人びとを習慣の変更にチャレンジさせる心持ちにすることが必要だということになるのだろうか。
「生物は興奮状態を不快と受け止める。生物は自らの状態を一定の状態に保とうとする」「何かが快いからそれを反復するのではなくて、反復するから習慣が生じ、それによって快が得られるのである」「この快の状態は、退屈という不快を否応なしに生み出す」「人間は本性的に、退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合った生を生きることを強いられているのだとすら言いたくなる」
退屈と気晴らしが絡み合い、快と不快を行ったり来たりするが、人間は「極めて高度な環世界間移動能力をもつ」と言う。絡み合いや行ったり来たりを受け入れた上で、この人間の持つある種の“多様性”に期待せよ、ということだろうか。
「結論」として著者は書く。「こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要はない」。思い煩うことは「与えられた情報の単なる奴隷」になってしまうことだと言う。慌てずに落ち着け、ということか。そして、消費ではなく浪費(して満足)すること、さらに「とりさらわれる」ことだと言う。この辺りも実際には丁寧に書かれている。それを味わって頂くには、この本を読んでもらって皆さんも「とりさらわれて」いただくのがいちばんだと思う。
個人的には「とりさらわれる」ことから、“ゾーン”(超集中状態で起きる精神的状況・境地)に繋がっていく。ゾーンの環世界にいつか浸ってみたい。
(日々本 第27回 針谷和昌)
追記1:「いいものを創ろう」の決意
ウィリアム・モリス(英/社会主義者/19世紀後半)の考える「ゆたかな社会」は「生活に根ざした芸術品を提供すること、日常的に用いる品々に芸術的な価値を担わせることを目指した」という話には、もう30年近く前になるけれど、これから何かを生み出して行く時によりデザイン性の高いものを作っていきたい、と“科学”に刺激を受けて決意したことを思い出した(つくば博の頃)。今でもそれは変わっていないので、そこまで時間的にも物理的にも手が回らなくてとことんこだわることが出来なかった時には、多少の後悔が残る場合がある。
追記2:トライを過度に誇らないラガーマンとブッシュマンは似ている?
「ちなみに、遊動狩猟民は、一般に、食料を平等に配分し、道具は貸し借りする。これは遊動民なりの、不和を避けるための技術と考えることができる。驚くのは、過度の賞賛を避ける習性をもっているということだ。ブッシュマンの社会では、大きな獲物を捕らえてきた狩人は、頭を下げて、そっとキャンプに戻り、ひっそりこっそりと獲物を皆の眼に付くところに置いておくのだという。過度に賞賛されて、権威的存在ができることを避けるのである」
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