日々本 其の二十六「暇つぶし」

運営していたスポーツカフェが閉店となる日、関係者、スタッフら皆の前での挨拶が順番に回ってきて、僕はこんなことを話し始めた。

「昨日、スタッフのLさんから訊かれました。仕事って何ですか?僕は答えました。突き詰めて言うと、暇つぶしかな。彼女は言いました。うちのお母さんもそう言っていたし、このカフェの関係者の一人に訊いてもそう言ってました…」

この挨拶の行方はともかく、それから2年半の月日が流れ、ビルの地下にある本屋でこの本を手に取っている最中、気がつかなかったけれど久しぶりの電話が、このLさんから入っていた。

『暇と退屈の倫理学 人間らしい生活とは何か?』(國分功一郎/朝日出版社)

「かつては労働者からの労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている」という話から始まる。僕は先ほどの挨拶にそって言えば「労働者として喜んで暇を搾取されている」という働き方をしているのかもしれないと思う。兎狩りをしに行く人が、ではどうぞと目の前に兎を差し出されてもちっとも嬉しくない。人は獲物が欲しいのではなく退屈から逃れ気晴らしをしたいから、そしてみじめな人間の運命から眼をそらしたいから狩りに行くのだという。なるほどと思う。「熱中するためであれば、人間は苦しむことすら厭わない。いや、積極的に苦しみをもとめることすらある」という話は、あらゆるアスリートに共通していると思う。すべての話を急がず、丁寧と思われるペースで書かれているので、いちいち納得して読み進んでいくことができる。

マルティン・ハイデッガーの「人間の大脳は高度に発達してきた。その優れた能力は遊動生活において思う存分に発揮されていた。しかし、定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力のあまりこそは、文明の高度の発展をもたらした。だが、それと同時に退屈の可能性を与えた」という話が紹介されている。繰り返し書かれているのは、暇があって退屈している状態に加え、暇がない状態でも退屈している、ということについての考察である。

エストニア生まれの理論生物学者ユクスキュルは、瞬間とは何か?に、こう答えている。「18分の1秒」。映画は単にフィルムの1コマ1コマを続けて回しているのではなく、コマの間に黒みがある。そうしないと動画に見えない。そしてその転換が18分の1秒以内だと、われわれには黒みは感知できないという。「1/18秒」の“瞬間”は視覚だけでなく聴覚にも共通していて、人間の耳では1秒間に18回以上の振動は捉えられないそうだ。1/18秒が人間の限界、この最小の時間の器が連なって人間にとっての時間ができている。カタツムリはそれが1/4秒、ベタという魚は1/30だという。生物によって瞬間の長さが異なるのである。そこから各生物にそれぞれの世界があるという「環世界」の話になっていく。

「何らかの衝動によって駆り立てられる」ことをハイデッガーは「とりさらわれる」と言うそうだ。人間以外の動物は「とりさらわれる」が人間は「とりさわられない」、つまり「環世界」は動物の世界だけのもので人間には認めていない。そこが彼の理論の苦しさを招いているという。人間にも環世界はあるが、人間はひとつの環世界に長くとどまれないために、退屈に悩まされるようになったと著者は言う。

暇と退屈をテーマにしたこの哲学の本は、決して人を暇にしないし退屈させない。なるほどと思うこと、その通りと思うこと、そして新たに考えさせられることが、次々と出てくる。著者が「普通の人」の目線で書いているからだと思う。これは先人たちの理論や学問を深く理解していないとできないことである。長くなったのでもう1回、この本を読んで考えたことを書ければと思う。

さて、Lさんからの電話は、いま務めている会社で新しい役割になったので、挨拶がてらお茶でもということだった。その日に会ってこの偶然の出来事を話すと、私も読んでみよう、と僕が「今買ってきた」と見せた本を携帯で撮影していた。Lさん、読んだかな?いやその前に、気が変わらずに買ったかな? この偶然の連鎖が続いていけばいいなと思う。

日々本 第26回 針谷和昌)

hariya  2012年2月12日|ブログ