世界体操(世界選手権)のフェアウェルパーティー会場で池田さんに初めてご挨拶してしばし歓談したのだが、その時に「私がローマの世界選手権(1954年)で初めてやった演技、ジャンプとターンが、今でも平均台の基礎的な演技になっているんですよ」という話を伺った。この時の世界選手権金メダル獲得は、日本女子体操史上、唯一無二の偉業である。
本人が「いつでも私の目の前には、誰も歩いたことのない未開の地があった」と書いているが、まさに前人未到地を切り開く競技人生。1952年に入学した日体大では初めての女子学生だったという記述があるが、最初、何を言ってるんだかすぐに飲み込めなかった。女子スポーツがこれだけ盛んな今からは考えられないが、それ以前は男子のみの日体大だったということだ。
1964年東京オリンピック女子体操団体では日本女子体操競技初の銅メダル獲得。エースだった池田さんは2児の母。北京オリンピックの時にビーチバレーの佐伯美香選手がママさん選手として話題になったが、「ママさん選手なんて、べつにたいしたことじゃないよ」とこの本で語る池田さんと、一度引き合わせてみたいと思った。「子どもを犠牲にしてしまった」という母親としての心の傷はおそらく生涯消えることがないだろう、と語る一方で、子どもが病気になっても心乱されることなくドンと人に預けて試合に集中できる環境を日頃からつくっておく、とも言っている。
現在の住居は東京オリンピックでの体操が開催された東京体育館の近く。「夫と私にとって、もっとも思いで深い場所。汗と涙、喜びと哀しみ、挫折と栄光……人生の大切なものすべてが、あの東京体育館に詰まっているような気がする」という東京体育館は、去年の世界体操の会場だった。その観客席の最前列から、男女を問わず日本選手団に大きな声援を送っていたのが池田さんだった。
閉塞感が漂う今、池田さんが「真っ白な積もりたての雪に足跡をつけてはしゃぐ童女のような心」でいられた時代が眩しい。でも池田さんが今の時代に現役選手だったら、いくらでも未踏の地はあるじゃない、と言いながら笑顔で挑戦し続けている気がする。
(日々本 第15回 針谷和昌)
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