日々本 其の十「フクシマ」

 『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(開沼博/青土社)
 

 
とうとう読み終えた。全403ページ。福島に対しての活動を考える僕にとって通読は必須、そういう思いで読んだ。正直言って、ちょっと根性が必要だった。
 
復興支援を唱える者に対して、著者の開沼博が「「その人たちを助けるために声を上げている正義感溢れるオレ・アタシ」みたいなヒロイズム」という言い方で戒めを語っていたのが、『私たちは、原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』(ロッキング・オン)。それと相通じる部分が多く、物事を一方からのみ捉えては本質がわからないということが、全体を通して示される。
 
それは例えば、放射性物質が流出している状況を煽り立てれば地元住民に手を差し伸べているようでむしろ風評被害をもたらせかねない、ということだったり、抑圧を描くことが抑圧を生み出すという二重の抑圧性を持った言説を生み出す、ということだったりもする。
 
キャラクターとしては、中曽根康弘、正力松太郎、鉄腕アトム、そしてドラえもん(動力が原子力)、さらには DASH村(浪江町山中にあった)まで出てきて、関係者総出演の様相。さらには戦時中、ウランが出ないかと石川町で採掘した結果、埋蔵量が少なく低品位で断念という話は、もし高品位で多量のウランが掘れていれば日本が先に原爆を開発していたかもしれないということになり、福島の持つ歴史の複雑さを考えさせられる。
 
著者は<原子力ムラ>に関わる人々を、官・産・政・学・反対運動・マスメディアとし、これら全体が安定的で穏健に進んでいく推進システムであると言う。反対運動も入っているところがミソ。そして大いなる夢を生み出すメディアである原子力に皆が騙されていたという話ではなく、またその幻想が原動力・エネルギーとなって戦後の成長があったということを指摘する。
 
未曾有の大災害が起こっても、また今までのままで今後も進む危険性がある。むしろその可能性の方が高いと思わされる。再び同じことを繰り返さないために、著者はとても重要で、かつ難しいことを提言する。
 
「私たちは生モノが腐敗しきるのをただ座して待つことを避けなければならない。すなわち「生モノ」の議論から離れ、保存可能な「忘却」に絶えうる視座を獲得し社会を見通すことを目指さなければならない」
 
まだ自分が何をやるかについては思い浮かばない。ただ次に読むべき本が、頭の中に浮かんできた。
 
日々本 第10回 針谷和昌)

hariya  2012年1月20日|ブログ