2014年「ブラジルワールドカップ」、2016年「リオデジャネイロオリンピック」。サッカーワールドカップと夏季オリンピックを立て続けに開催するブラジルの人気は、日本で間違いなく沸騰していくことになると思う。そのブラジルに僕は縁があって、初めて訪れたのはもう25年前。ビーチバレーの国際化の走りの大会がリオで開催されることになって、僕はビーチバレーというスポーツにいち早くコミットしていたので派遣されることになった。
1987年2月、日本の反対側だから真夏のリオに、たまたま僕の誕生日の数日前に到着。僕は20代最後の日々を、初めてのブラジルで過ごした。この時に体験した驚きと興奮が、同じ年の8月に始まったビーチバレー日本選手権のかなりな部分の原型となり、そしてこのリオでの大会は3年連続で開催され、僕も3年連続でリオへ日本バレーボール協会から派遣された。
2度目のリオには作家の山際淳司さんと共に行った。世の中に知られていないビーチバレーを、当時最も注目されていたスポーツライティングの第一人者に書いてもらおうと、遥々リオまで一緒に行ってもらったのである。山際さんは幾つかの作品でビーチバレーを題材にしてくれた。そして亡くなられるまで、ずっと応援し続けてくれた。
1度目も2度目も日本チーム自体が大会に招待されていたが、3度目のチームは最も仲がよくなる2選手、高尾和行/菅野幸一郎チームだった。高尾選手は後に初めてのビーチバレー五輪・アトランタオリンピックの代表選手になり、その後ビーチバレーの男子監督を務めた。菅野選手はその後Vリーグへ進み、選手引退後は先ず男子チームの監督、そして次に女子チームの監督となって、何度も優勝して名監督への道を突き進んでいる。
青い空と強烈な光と白い砂。「ブラジル!ブラジル!ブラジル!」と巨大な仮設スタンドで声援を送る褐色のそしてカラフルな水着の大観衆。水着姿の野性味溢れる選手たちが、跳ねて砂を飛ばし、ボールを思いっきり打ち込み、そして砂に飛び込んでいく。砂の熱さ、スタンドの熱さ、そして選手たちの熱さ。初めて行ったリオのイパネマ海岸で「こんなスポーツがまだあったんだ」と震えた瞬間が忘れられない。その熱が覚めやらず、気がついたら僕はその後、四半世紀もこのスポーツに携わっている。
ビーチバレーというスポーツの国際化が、ブラジルから、リオデジャネイロから始まって良かったと、改めて思う。あのリオのビーチバレーを体験した人たちが、多かれ少なかれその興奮を原動力に、世界へビーチバレーを広めていったのだと思う。そして今やビーチバレーは、オリンピックでのチケット売り上げのトップを競う人気スポーツになった。
『ブラジルの流儀』(和田昌親 編著/中公新書)
ビーチバレーの話をすると止まらなくなるので、つい前置きが長くなった。ビーチバレーの話は出て来ないが、ブラジルの魅力の根源が、この本にはびっしりとつまっている。ほとんど日本と正反対のブラジル。いろんな意味で世界の広さを最も感じられる国だと思うし、そのブラジルを体験した人にも未体験の人にも、存分に楽しめる本だと思う。
僕は2000年にもビーチバレーの関係でリオへ行った(その年のシドニーオリンピックで4位になる佐伯美香/髙橋有紀子チームの合宿を取材だった)。つまり通算4度訪れたことになるのだが、これからの4年間に開催される2つのビッグスポーツイベントが、5度目のブラジルへの旅の最大の引き金になることは間違いない。
山際さんと通ったビーチに近い四つ角それぞれにあるレストランは、まだあるだろうか。あのポンデケージョをまた食べられるだろうか。ここ数年、興味を持ち続けているボサノバが生まれた場所で、ライブが聴けるだろうか。改修したという8万人収容のマラカナンスタジアムには、危険人物を収容する檻がまだあるのだろうか。中嶋悟さんと会話したジャカレパグアサーキットでは、あの時のようにF1マシンが走っているだろうか。まだまだある。久しぶりに思い出すシーンと新たな興味は、尽きることがない。
(日々本 第3回 針谷和昌)
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